スタッフ募集

はじまりは・・・

社名「共栄」の意味

 

私の故郷は、佐賀県の伊万里湾に面した海と山が近い小さな町です。

 

両親は20代から建築材料を取り扱う会社を営んでいました。

最初は川砂の配達を大きなダンプトラックでしていたそうです。物心ついた時には自宅が建材店だったので建築材料に囲まれて育ちました。大きな砂場があり、兄弟でよく遊んでいたのを思い出します。

 

私の父は大変ベンチャースピリッツがありました。

石原裕次郎に憧れていて、息子の私から見てもちょい悪どころではないおやじでした(笑) が、一緒に職人さんと飲みに行ったりして地域では兄貴的な存在でした。
家では、仕事が終わって大工さんたちと、よくお酒を飲みに行っていました。

さぞ、母は大変だっただろうな、と思います。

 

だれにでも気兼ねなく付き合う父は沢山の人から、仕事の紹介を頂き、商売は順調そのものでした。

少々荒い職人気質の大工さんや左官さんと幼いながらもよく話しをしていました。

将棋や礼儀は職人さんに教えていただいたと思っています。
そんな家庭環境で、私の周囲には職人さんがいつもいて、建築という職種に自然と関わっていました。

私は、幼少時、いつも両親が忙しく、子供だけで過ごしていた記憶があります。

親に時間を取らせてはいけないと思っていましたので、自分でできることをして楽しんでいました。

本を読んだり絵を書いたりしていました。

特に自分がイメージしたストーリーをチラシの裏の白紙に漫画で書くことをよくしていました。

空想好きで、おもちゃのブロックで色んな乗り物や動物を作ることも大好きでした。

特に、遠くに飛ばすための凧作りと紙飛行機作りは、かなりハマりました。

材料の選定からデザインと性能の工夫に没頭しました。

小学生の時に凧が飛び過ぎて昼休みに回収できずに怒られ、紙飛行機が飛び過ぎて自宅前の道路の先の先まで飛んでしまい、上を見ながら追いかけて車にひかれるといった経験もしています(笑)

 

小さい頃は自分が住んでいる家のことなど、何も考えてなかったのですが、住んでいた家は、屋根は波板とスレートで構造材は後で聞いたのですが学校の解体の廃材で作ったそうです。

風呂も洗い場にカニがいるようなオンポロで(笑) 継ぎはぎだらけで、私達が大きく成長するにつれ、ちょっとずつ増改築しましたので、なんと家の中には段差が4つもある家でした(笑)

両親は、つらい表情をいっさい見せず、がむしゃらに働いていました。

実は現在、結婚してからその家をリノベーションして、住み続けています。


住まい全般の仕事をする家業の影響で培った好奇心は、「物づくり」が好きという形で表れて、小学生では図画工作が好きで、中学・高校になると商業デザインの世界に大いに興味を持ちました。

大学も芸術学部の空間デザインで学ぶようになります。


大学受験は絵の試験に合格するように、1年前からデッサンの得意な有田の窯元さんに特別に弟子入りして修行させていただき、必ず合格できるように福岡にまで絵を習いに行きました。

その後、「絵」の大学試験も無事合格!! 

大学時代は色んな建物や商業施設を見てまわり、この時代に体験したことは、貴重な経験となりました。

 

そして私はデザインの世界をもっと広めたい、そのことを教えることが使命だと考えるようになり、高校の美術の先生になりました。

最初は生徒さんにデザインの素晴らしさを教えることに一生懸命でしたが、時間がたつにつれ、物づくりを教える立場では物足りなくなってきました。

自分の仕事として自分のデザイン力を試して、人に喜んでもらいたいという欲求が段々と強くなってきたのです。

一旦、教職の道を志して高校の先生になりましたが、やはり建築の夢を捨てきれずに、設計事務所に入ることになりました。

 

建築設計は初めての経験で最初は先輩の設計補助から、設計のイロハを教えていただきました。

それから大手のハウスメーカーの設計担当に抜擢されて、お客様との打ち合わせや現場での確認や調整、段取りを何十棟と経験させてもらいました。

 

結局は物づくりの原点に帰ってきました。

子供の頃から日常的に建築に関わってきた経験が自分のルーツとして残っていたことに、我ながら驚きました。

そして無心でものづくりをしている、建築設計をしている時間の楽しさ。

このとき私は自分の道を発見したのです。

 

実家の会社では、工務店や大工さんに材料を卸す建材部門を私の父が担当し、公共工事に使う大きなコンクリート製品の製造と卸しを父の兄が経営して、兄弟で順調に業績を伸ばしていました。

少し世の中の景気が傾きかけたころに、私は設計事務所を辞めて両親の仕事の手伝いをするために地元に帰ってきました。

 

時代は流れバブルが崩壊。

公共工事の減少に伴い、コンクリート製品が売れなくなってしまいました。

コンリート製品を扱う事務所と工場を閉鎖することになり、私は会社に戻って来たばかりで会社が大丈夫なのか、心配でたまりませんでした。

まわりの方や銀行さんの都合をつけて、コンクリート工場は閉鎖に至りました。

しかし地元で雇用していた何人かの従業員さんを辞めさせなくてはいけなかったのです。

大変辛くて、悲しい思いを経験致しました。

 

その頃から、ありがたいことに、

「共栄さんには材料だけではなく、設備機器の取り付け、材料の施工もお願いしたい」

そのようなお声を沢山頂き、増改築部門と設備工事部門を新たに立ちあげることとなりました。
創業したての、歴史もない小さな建築会社に集まってくれた、沢山の職人さんたち。
おそらく、両親の人の良さに集まってくれたのでしょう。

 

地域のお客様が、一人、そうしてまた一人と・・・
建築のご依頼をして頂き、
気づけば、地域で新築・増改築・設備機器の取り換えやメンテナンスでは「共栄さんへ」
と声をかけていただけるようになりました。


本当に、お客様、地域の皆様
スタッフや協力会社や職人さん達、そして家族に感謝しています。

弊社は地元のみなさんに必要とされる会社でありたいと思っています。

常にサービスの成長を続けて行きたいと思っております。

家づくりは、建てて終わりではなく
建ててからが本当のスタートです。

創業にあたっては、お客様は元より、関わっていただいた人と共に栄えることを心情としたいので「共栄」と称することになったと聞いております。

 

これからも地域一番店としてスタッフ・お客様・職人さんと、共に栄える存在になるように精進していきたいと思います。

 

 

お互いの顔が見える家づくり 

 

共栄ホームは、たとえれば”オーナーシェフの街の小さなレストラン”のような工務店です。

規模を追い求めるのではなく、個々の家族にとってのベストな家のかたちをひとつひとつ真剣に考え、ご提案させていただきます。

一般的には家づくりをすすめるにあたって、営業、設計、現場監督、職人と分業制でおこなわれていますが、共栄ホームでは私たちが一貫しておこなうので、竣工まで安心してなんでもご相談いただけます。

資金計画においては、ローンアドバイザーの私が最善の計画を立案いたします。

また補助金など優遇がされる制度も建築の中にしっかりと取り入れ、ご案内しております。

プランニングにおきましても、わたしたちの設計物件が住宅雑誌等に掲載されるなどの実績があり、設計も評価されてきました。

今までに400棟あまりの新築に関わらせていただきました。
建築工事のかなめとなる大工工事も、技能・技術力の確かな職人だけを抜擢しております。
小さな工務店ながら、家づくりの実力においては大手ハウスメーカーをしのいでいると、自信を持って言えます。

 

正しい家、正しい価格 

 

私が常々感じることは、企業の利潤追求への抜きがたい執着が、すまい手にとっての家づくりを不十分なものにしてしまっていることです。

業界のプロである私の目からすれば、心底が透けて見えるのです。

たばこを吸わない人には、喫煙者の体臭がすぐ分かるように。

テレビCMや営業マンに莫大な費用を投入し、実際に汗を流して家を造っている職方たちに対しては、力で請負単価を下げてゆく。お金をかけるべきところが逆なのです。
近年の建築現場のこころの荒廃はひどいものがあります。かつて、職人とはすまい手の幸せを願ってひとつひとつのものを大事に造っていたのですが、いまは皆無に近い状態です。

またそうさせたのは、直接のつくり手ではない者たちが自分たちの利益を不当に上げようとしたからでもあります。

役所や民間の検査員が3~4回チェックにきても、そこそこのものはできても、最高のものはできません。

職人の地位が下がり、収入も下がるにつれて、優秀な人材も集まらなくなりました。

でも本来はドイツでマイスターとよばれるような、知識、技術、技能をかね備えたものが、一貫してひとつの家をつくることが、高品質でかつ廉価な住宅を提供できる方法なのです。

それには、有名タレントや成績達成が目的の営業マンは要りません。一流・大企業信仰から離れ、これからは自分の目と耳と見識と直感力で選んでゆくことが必要だと思います。

 

家づくりを始めたきっかけ

はじまりは・・・

社名「共栄」の意味

 

私の故郷は、佐賀県の伊万里湾に面した海と山が近い小さな町です。

 

両親は20代から建築材料を取り扱う会社を営んでいました。

最初は川砂の配達を大きなダンプトラックでしていたそうです。物心ついた時には自宅が建材店だったので建築材料に囲まれて育ちました。大きな砂場があり、兄弟でよく遊んでいたのを思い出します。

 

私の父は大変ベンチャースピリッツがありました。

石原裕次郎に憧れていて、息子の私から見てもちょい悪どころではないおやじでした(笑) が、一緒に職人さんと飲みに行ったりして地域では兄貴的な存在でした。
家では、仕事が終わって大工さんたちと、よくお酒を飲みに行っていました。

さぞ、母は大変だっただろうな、と思います。

 

だれにでも気兼ねなく付き合う父は沢山の人から、仕事の紹介を頂き、商売は順調そのものでした。

少々荒い職人気質の大工さんや左官さんと幼いながらもよく話しをしていました。

将棋や礼儀は職人さんに教えていただいたと思っています。
そんな家庭環境で、私の周囲には職人さんがいつもいて、建築という職種に自然と関わっていました。

私は、幼少時、いつも両親が忙しく、子供だけで過ごしていた記憶があります。

親に時間を取らせてはいけないと思っていましたので、自分でできることをして楽しんでいました。

本を読んだり絵を書いたりしていました。

特に自分がイメージしたストーリーをチラシの裏の白紙に漫画で書くことをよくしていました。

空想好きで、おもちゃのブロックで色んな乗り物や動物を作ることも大好きでした。

特に、遠くに飛ばすための凧作りと紙飛行機作りは、かなりハマりました。

材料の選定からデザインと性能の工夫に没頭しました。

小学生の時に凧が飛び過ぎて昼休みに回収できずに怒られ、紙飛行機が飛び過ぎて自宅前の道路の先の先まで飛んでしまい、上を見ながら追いかけて車にひかれるといった経験もしています(笑)

 

小さい頃は自分が住んでいる家のことなど、何も考えてなかったのですが、住んでいた家は、屋根は波板とスレートで構造材は後で聞いたのですが学校の解体の廃材で作ったそうです。

風呂も洗い場にカニがいるようなオンポロで(笑) 継ぎはぎだらけで、私達が大きく成長するにつれ、ちょっとずつ増改築しましたので、なんと家の中には段差が4つもある家でした(笑)

両親は、つらい表情をいっさい見せず、がむしゃらに働いていました。

実は現在、結婚してからその家をリノベーションして、住み続けています。


住まい全般の仕事をする家業の影響で培った好奇心は、「物づくり」が好きという形で表れて、小学生では図画工作が好きで、中学・高校になると商業デザインの世界に大いに興味を持ちました。

大学も芸術学部の空間デザインで学ぶようになります。


大学受験は絵の試験に合格するように、1年前からデッサンの得意な有田の窯元さんに特別に弟子入りして修行させていただき、必ず合格できるように福岡にまで絵を習いに行きました。

その後、「絵」の大学試験も無事合格!! 

大学時代は色んな建物や商業施設を見てまわり、この時代に体験したことは、貴重な経験となりました。

 

そして私はデザインの世界をもっと広めたい、そのことを教えることが使命だと考えるようになり、高校の美術の先生になりました。

最初は生徒さんにデザインの素晴らしさを教えることに一生懸命でしたが、時間がたつにつれ、物づくりを教える立場では物足りなくなってきました。

自分の仕事として自分のデザイン力を試して、人に喜んでもらいたいという欲求が段々と強くなってきたのです。

一旦、教職の道を志して高校の先生になりましたが、やはり建築の夢を捨てきれずに、設計事務所に入ることになりました。

 

建築設計は初めての経験で最初は先輩の設計補助から、設計のイロハを教えていただきました。

それから大手のハウスメーカーの設計担当に抜擢されて、お客様との打ち合わせや現場での確認や調整、段取りを何十棟と経験させてもらいました。

 

結局は物づくりの原点に帰ってきました。

子供の頃から日常的に建築に関わってきた経験が自分のルーツとして残っていたことに、我ながら驚きました。

そして無心でものづくりをしている、建築設計をしている時間の楽しさ。

このとき私は自分の道を発見したのです。

 

実家の会社では、工務店や大工さんに材料を卸す建材部門を私の父が担当し、公共工事に使う大きなコンクリート製品の製造と卸しを父の兄が経営して、兄弟で順調に業績を伸ばしていました。

少し世の中の景気が傾きかけたころに、私は設計事務所を辞めて両親の仕事の手伝いをするために地元に帰ってきました。

 

時代は流れバブルが崩壊。

公共工事の減少に伴い、コンクリート製品が売れなくなってしまいました。

コンリート製品を扱う事務所と工場を閉鎖することになり、私は会社に戻って来たばかりで会社が大丈夫なのか、心配でたまりませんでした。

まわりの方や銀行さんの都合をつけて、コンクリート工場は閉鎖に至りました。

しかし地元で雇用していた何人かの従業員さんを辞めさせなくてはいけなかったのです。

大変辛くて、悲しい思いを経験致しました。

 

その頃から、ありがたいことに、

「共栄さんには材料だけではなく、設備機器の取り付け、材料の施工もお願いしたい」

そのようなお声を沢山頂き、増改築部門と設備工事部門を新たに立ちあげることとなりました。
創業したての、歴史もない小さな建築会社に集まってくれた、沢山の職人さんたち。
おそらく、両親の人の良さに集まってくれたのでしょう。

 

地域のお客様が、一人、そうしてまた一人と・・・
建築のご依頼をして頂き、
気づけば、地域で新築・増改築・設備機器の取り換えやメンテナンスでは「共栄さんへ」
と声をかけていただけるようになりました。


本当に、お客様、地域の皆様
スタッフや協力会社や職人さん達、そして家族に感謝しています。

弊社は地元のみなさんに必要とされる会社でありたいと思っています。

常にサービスの成長を続けて行きたいと思っております。

家づくりは、建てて終わりではなく
建ててからが本当のスタートです。

創業にあたっては、お客様は元より、関わっていただいた人と共に栄えることを心情としたいので「共栄」と称することになったと聞いております。

 

これからも地域一番店としてスタッフ・お客様・職人さんと、共に栄える存在になるように精進していきたいと思います。

 

 

お互いの顔が見える家づくり 

 

共栄ホームは、たとえれば”オーナーシェフの街の小さなレストラン”のような工務店です。

規模を追い求めるのではなく、個々の家族にとってのベストな家のかたちをひとつひとつ真剣に考え、ご提案させていただきます。

一般的には家づくりをすすめるにあたって、営業、設計、現場監督、職人と分業制でおこなわれていますが、共栄ホームでは私たちが一貫しておこなうので、竣工まで安心してなんでもご相談いただけます。

資金計画においては、ローンアドバイザーの私が最善の計画を立案いたします。

また補助金など優遇がされる制度も建築の中にしっかりと取り入れ、ご案内しております。

プランニングにおきましても、わたしたちの設計物件が住宅雑誌等に掲載されるなどの実績があり、設計も評価されてきました。

今までに400棟あまりの新築に関わらせていただきました。
建築工事のかなめとなる大工工事も、技能・技術力の確かな職人だけを抜擢しております。
小さな工務店ながら、家づくりの実力においては大手ハウスメーカーをしのいでいると、自信を持って言えます。

 

正しい家、正しい価格 

 

私が常々感じることは、企業の利潤追求への抜きがたい執着が、すまい手にとっての家づくりを不十分なものにしてしまっていることです。

業界のプロである私の目からすれば、心底が透けて見えるのです。

たばこを吸わない人には、喫煙者の体臭がすぐ分かるように。

テレビCMや営業マンに莫大な費用を投入し、実際に汗を流して家を造っている職方たちに対しては、力で請負単価を下げてゆく。お金をかけるべきところが逆なのです。
近年の建築現場のこころの荒廃はひどいものがあります。かつて、職人とはすまい手の幸せを願ってひとつひとつのものを大事に造っていたのですが、いまは皆無に近い状態です。

またそうさせたのは、直接のつくり手ではない者たちが自分たちの利益を不当に上げようとしたからでもあります。

役所や民間の検査員が3~4回チェックにきても、そこそこのものはできても、最高のものはできません。

職人の地位が下がり、収入も下がるにつれて、優秀な人材も集まらなくなりました。

でも本来はドイツでマイスターとよばれるような、知識、技術、技能をかね備えたものが、一貫してひとつの家をつくることが、高品質でかつ廉価な住宅を提供できる方法なのです。

それには、有名タレントや成績達成が目的の営業マンは要りません。一流・大企業信仰から離れ、これからは自分の目と耳と見識と直感力で選んでゆくことが必要だと思います。

 

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